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富岡町と川内村を結ぶ県道36号から福島第一原発を望む。富岡町が川内村を避難先としたのは、町の南北に原発がある立地から西へ行くしかないとの判断が大きかった(2013.11.1)

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 東京電力(株)福島第一原発の事故後も、福島県沿岸部の6町2村からなる双葉郡の中で乳牛を飼い続けている酪農家がいる。川内村で3世代にわたって酪農を営んできた井出牧場は、原発事故による影響で川内村だけでなく双葉郡内で最後の1戸となった酪農家でもある。
 福島第一原発が立地する双葉町や大熊町、高濃度の放射能汚染地を抱える浪江町などがある双葉郡は警戒区域解除後、各自治体によって区域再編が行われたものの、現在も将来のビジョンが描けない状態が続いている。そんな双葉郡にあって川内村だけは違っていた。村内の放射能汚染が軽微との理由で2012年1月末、村民の帰還を促す"帰村宣言"を遠藤雄幸村長が発表したのだ。
 原発事故発生当時、川内村は全村避難を決定するまでの数日間、隣接する富岡町から避難して来た人たちの対応に追われていた。3月12日早朝、富岡町は福島第一原発から半径10km圏内に避難指示が出されたことを知り、防災無線などを使って町民に川内村への避難を呼び掛けたのだ。富岡町の住民は地震による停電と頻発する余震から体育館などの避難所で夜を明かした人も多く、そのまま町が用意したバスに乗せられて"着の身着のまま"で川内村へやってきた人も少なくなかった。
 富岡町と川内村を結ぶ唯一の道路である県道36号は大渋滞を起こし、通常なら30分程度の移動に3時間以上かかるほど車両が連なった。それでも福島第一原発1号機の爆発が伝えられた夕方にはほとんどの町民が避難を終え、富岡町民約1万6千人のうち8,000人近い人たちが川内村に身を寄せた。

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 川内村で酪農を営む井出淳(35)さんは3月11日、郡山市内の病院でMRI検査を受けていた。持病の腰痛が悪化し、歩くことさえ困難になったためだった。検査を終えて着替えようとした瞬間、建物が大きく揺れはじめ、井出さんは青い検査服のまま倒れてくるロッカーを押さえ続けることになった。揺れが治まると乗用車に乗って自宅へ向かった。病院の駐車場から外へ出ると、郡山市内は停電のために市内の信号が全て消えていた。立ち寄ったガソリンスタンドでは従業員が手動のポンプを使ってガソリンを満タンにしてくれた。
「車内でラジオを聞いていたら津波のニュースばかりだったので、原発のことなんか全く頭になかったですよ。それよりも自宅や牛舎が倒れていないか心配でした」
 2時間半かけて帰ることができた川内村は電気が通じていて、牛舎も自宅も地震による目立った被害はなかった。井戸を使っていたので水も不自由なく使うことができ、その日は通常の牛舎作業をこなして1日を終えた。


牛舎作業全般を担う井出淳さん。牛舎には原発事故後、飯舘村や浪江町の酪農家から譲り受けた乳牛もつながれている(2013.11.1)

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 川内村で生まれ育った井出さんは福島県農業短期大学校の畜産学科酪農コースを卒業後、双葉郡のヘルパーとして5年間働き、25才で実家の牧場に就農。高校卒業時には実家の後継を考えていたこともあり、ヘルパーとして働いた期間は実践を学ぶ場となり、浜通りの酪農家と親しくなる良い機会にもなったという。
 井出さんが就農した翌々年、自宅から約300m離れた場所に土地を確保し、牛舎などの施設を新築。自宅隣に祖父が建てたそれまでの牛舎は最大で30頭規模だったが、新牛舎は61頭まで搾乳できるように設計した。新牛舎の柱や梁は父の久人(59)さんが集めていた木製の電柱を使い、地元の大工と共に自分たちで建てた。乳牛改良に熱心な父の影響もあり、徐々に納得できる自家産牛を増やしていき、牛舎に空きスペースをつくらないことを心掛けた。しかし新牛舎への移行に伴い餌メニューを変えたことが裏目となり、繁殖面で数年間苦労する結果となった。
「牛舎を引っ越す際、1回ストレスを与えるのなら同じかなと思って餌を変えたんです。そうしたら失敗の連続。全く受胎しないし、発情もまばら。種付けをするけれど、全くダメだった。繁殖戻すのに9年かかりました。そして今年から大丈夫だと思ったら原発事故が起ったんです」

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 3月12日に福島県酪から集乳できないと連絡が入り、井出さんは朝の搾乳後、バキュームカーへ移し替えた生乳を草地へ廃棄した。作業を終えて自宅へ戻る途中、知り合いに声を掛けられ、井出さんは村内に富岡町民を受け入れる避難所が開設されたことを初めて知った。消防団員だった井出さんは自宅で消防服へ着替え、避難所へ向かった。
「避難誘導が主な仕事だったけれど、体育館にいる人たちにおにぎりやパンを配ったりもしました。皆さん気が立っているじゃないですか、だから怒られるのも仕事だと割り切っていました。最初のころは富岡の人たちも『2、3日避難すれば帰れるでしょ』という感じで、俺も含め村の人たちも同じように思っていました」
 川内村役場から福島第一原発までは直線距離で約22km。12日の夕方には同原発から20km圏内に避難指示が拡大し、川内村の一部も同指示の対象となった。始めは"念のための避難"だと思っていた人たちも1号機に続き3号機も爆発する事態となって、”これはただ事”では済まないという空気になっていたという。
 国や県から川内村へ具体的な連絡はなく、避難などの決定は首長でさえテレビからの情報に頼らざる得ない状況だった。
 3月15日に政府が20〜30km圏内に対して屋内待避を指示すると、川内村は防災無線で自主避難を呼び掛け、翌朝には全村避難を決定。県からは避難先として南会津や群馬県などが提案されたが、降雪が予想される上に燃料が乏しい状況下では遠くまで行けないと、川内村富岡町の両首長判断で避難先は郡山市の総合屋内運動施設「ビックパレット」にすることが決められた。普段は通る車が少ない井出牧場脇の道路を車が次々と走り去り、村から人の姿が消えるまでそう時間は掛からなかった。
「牛舎に防災無線がないので、立ち寄ってくれた知り合いから自主避難を知りました。避難するから、と伝えにきてくれたんです。どうするんだと問われたけれど、俺たちは牛がいるから無理だと答えるしかなかった。車を見れば誰か分かる村ですからね。これはもしかして残るのは俺たちぐらいじゃないかと思ったら、全村避難が決定した16日夜には周囲に誰もいなくなりました」
 井出さんは牛の世話をするため、両親と共に川内村に残ることを決めていた。しかし不安は常に隣り合わせだった。人がいなくなった川内村の空を見上げると、空気の色も違って見え、どんよりとした厚い雲が気分をさらに暗くさせた。もともと周囲を山に囲まれた静かな村だったが、人の姿と共に音も消え、それが精神的にこたえた。
 牛舎を新築してからの9年間、井出さんは牛を管理する難しさに苦しんでいた。その苦しさから脱却し、自分が思い描く水準に達した矢先での原発事故。だからこそ酪農を諦めたくなかった。
 そう思っていても、必要なものはまとめて乗用車のトランクに積み、夜は電気を点けっぱなしにしたままジーンズをはいてこたつで眠った。固定電話は使えず、携帯電話も自宅や牛舎周辺では不通だった。飼料の手配や情報入手のため、携帯を握りしめて電波を探し回ったこともあった。1ヶ月の通話代が5万円を超えた。


2003年に建てられた井出牧場の牛舎。2014年には牛舎前に大型堆肥舎を新築(2014.6.4)

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 4月22日。それまで20〜30km圏内に出されていた屋内待避指示が解除となり、川内村は「警戒区域」と「緊急時避難準備区域」という扱いとなった。20km圏内にかかる地区は住民であっても立ち入りが禁止される警戒区域となり、川内村では3戸あった酪農家のうち、1戸が同区域に指定された。人が消えた牛舎では、牛たちが苦しみながら息絶えた。
 井出牧場や村役場などがある緊急時避難準備区域は居住が禁止されず、緊急時には屋内や区域外へ避難できる態勢が取れれば問題ないとされた。ただし自力避難が困難な要介護者や児童は対象外とされた。それでも村へ戻る人は少数で、ほとんどの住民が村から離れた場所で避難生活を送っていた。
 井出牧場には相変わらず村からの連絡や役場職員が訪ねてくることはなかったが、誰かしらが自宅の様子を見に来たついでに牛舎へ立ち寄ってくれ、地元の新聞だけは毎日読むことが出来たという。
「獣医さんと餌屋さんが事故後も来てくれたことに感謝しています。ここは原発から30km圏内にあり、積極的な治療はしないと決まっていたみたい。この先どうなるか分からないから、と。それを無理やり週イチで来てくれ、震災前とまるっきり同じことをしてくれたんです。最初は組合の指導や飼料の心配もあって給与量を抑えていたんですが、目に見えて牛が調子悪くなっていくんですよ。それを見ているとかわいそうになって。そうしたら運が良いことに原発事故前と同じ飼料が何とか入手できるかもしれないとなった。だから事故の1週間後くらいから、中身や量を事故前と同じメニューに戻したんです。そして廃乳になるとわかっていても1日2回の搾乳を続けていました。最悪どうにもならないところまで行っても、最後まで同じことをやろうと思ってましたから。来年のことを考えてないとやっていられないという思いが強く、当時は残れればラッキーぐらいの気持ちでした」
(続く)


*年齢は当時(記事執筆は2013年11月)