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浪江町津島地区から乳牛が運ばれた。人もまた牛と同じく離ればなれとなり、それぞれの地で避難生活を送ることとなった(2011.5.27)

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 東京電力(株)福島第一原発の事故から1ヶ月後の2011年4月11日、政府は初めて「計画的避難」を公表。この避難指示は年間被ばく量が20mmシーベルトに達する恐れがある地域が対象で、津島地区だけでなく浪江町と隣接する飯舘村全域と川俣町山木屋地区、南相馬市の一部と葛尾村も同避難指示の対象となった。この避難区域の発表に伴い、津島地区を始めとする帰宅困難区域は長期に渡る居住禁止措置が取られ、住民であっても一時帰宅は月1回程度という制限が設けられた。11日の政府会見では「避難はおおむね1ヶ月を目処に実行されることが望ましい」とされ、該当地域にとどまっていた人たちを不安な気持ちにさせた。
 津島地区では既に大半の住民が自宅を離れ、残っているのは畜産農家ぐらいといえた。家族は避難させ、主だけが牛舎に残って家畜の世話を続けていたのだ。そして同月22日、原子力災害対策本部長である菅直人総理(当時)から福島県知事および関係市町村長に対し計画的避難区域の避難指示が正式に発表された。
 当時、津島地区では全9戸の酪農家が牛の世話を続けており、200頭近くの経産牛が飼養されていた。育成牛や初妊牛の一部は4月中に福島県酪農業組合の独自判断で県南の福島県酪施設などへ一時避難が行われていたが、その後、県産原乳から当時の基準値を超える放射性ヨウ素が検出されたことから、経産牛の移動制限は計画的避難区域発表後も継続していた。そのため酪農家は避難したくとも牛がいるがゆえに避難できない状況が続いていた。計画的避難区域全体では約680頭の経産乳用牛が残っていた。
 阿武隈山地では遅い春が訪れ、津島地区や飯舘村では桜が咲き始めていた。しかしとどまり続けていた酪農家に桜を愛でる余裕はなく、中には桜が咲いたことさえ気付かぬ人もいた。

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 5月6日。福島県各地から70名ほどの酪農家が郡山市内に集まり、県酪農青年研究連盟主催の「福島の酪農まけねぇぞ決起集会」が開催された。津島地区からは紺野宏さん(51)と門馬秀昭さん(42)の2人が参加し、避難指示地域の酪農家が直面している深刻な現状が門馬さんから報告された。
「20km圏内はテレビなどで報道されている通り、牛は100%ダメです。辛うじて生き残っていた牛も処分するという話が出ましたので、牛舎に残された牛はぜんぶ死んでいると思う。そんな悔しい思いをした酪農家もいる。俺たちも県や国から避難してくださいと言われるんですが、好きでとどまっているわけじゃないんです。避難したくても、今まで一緒に生活してきた牛たちがおり、最後まで面倒を見なくては、その気持ちで頑張っているんです。周りからの支援も何もなく自分らで頑張るしかなくて、それでも牛がかわいそうだからいるんだと、役場職員と会うたびに言ってきた。だから町から『なんでいるんだ』と言われると逆に腹が立つんです。国や県にはせめて今いる牛たちを何とかしてもらいたい。国は『県に任せています』と言い、県は『国の指示です』と言う。牛はまだいるんですよ。今まで何十年掛けて改良してきた牛を他の人に預けて、それをもう1回戻して自分の牛にして再建したいと思っているんです。なんでそういうことを分かってくれないのか。せめて俺たちが飼っていた牛を面倒みてから避難したいです」
 集会の数日前には全域が津島地区と同じ計画的避難区域となった飯舘村の酪農家が「酪農を続けていくことは困難」との理由から「酪農を休止し全乳牛を処分」という決断を下していた。それは飯舘村で酪農を営んできた全11戸の苦渋の選択だった。

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 その後、国と協議を行った県畜産部は計画的避難区域外への家畜移動について生産者へ意向調査を行うことを発表した。牛の移動に際しては家畜市場などを通して売買する「生体出荷」、計画的避難区域外へ一時的に避難させる「一時待避」、食肉用に出荷する「と畜出荷」という3つの方法が提示され、家畜移動をする際は放射線のスクリーニング検査を行い、体表から10万cpm(1分間に計測した放射線の数)を超える放射線が測定された家畜は移動を認めないことが決められた。この10万cpmという数値は人間のスクリーニング基準と同じで、さらにと畜となった家畜に関しては食肉加工前に枝肉のモニタリング検査が義務づけられた。
 これら放射線スクリーニング検査は福島県家畜保健衛生所などによって行われ、結果は1,000cmp未満が全体の80.5%を占め、5,000cmp以下が18.7%というものだった。計画的避難区域では肉用・乳用合わせて1,279頭もの牛が検査対象となったが、基準を超える牛は1頭も検出されず、全ての牛が移動に問題なしとされた。しかし避難先となる施設に限度があることなどから「一時待避」は繁殖用雌牛が優先され、この時点では乳牛の多くが搾乳目的でない「と畜出荷」というつらい選択を迫られたのだった。牛を乗せたトラックを見送る酪農家の中には悔しさと悲しみで涙を流す人も少なくなかった。


苦楽を共にしてきた酪農仲間が三瓶牧場の乳牛搬出作業に協力。集まった人たちが泣き笑いのような複雑な表情をしていたのが強く印象に残っている(2011.5.27)


三瓶さんと今野さんの共同経営牧場「T・ユニオンデーリィ」。頭文字のTには故郷である津島への思いが込められている(2011.5.27)

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 5月27日、津島地区でそれぞれ親子2代にわたって酪農を続けてきた三瓶利仙さん(55)さんと今野剛さん(49)の牛舎には朝早くから津島地区の酪農家や組合職員が集まり、一時退避としての経産牛搬出に向けた準備が行われていた。その中には県ホルスタイン改良同志会の会員や近県から駆けつけた仲間の姿もあり、牛舎は2人の再出発を応援する雰囲気に包まれていた。
 義理の兄弟でもある三瓶さんと今野さんは共同経営で酪農を続ける道を選択し、原発事故後に離農牛舎を苦労して見つけ、古くなっていたパイプラインなどの舎内設備を自己資金で数百万円掛けて整備し直していた。移転先の牛舎は福島県酪本所に近い本宮市にあり、敷地面積や牛舎の大きさから経営規模は縮小せざる得なかった。2戸分の経産牛が飼養できないため、それぞれの牛舎から30頭ずつを選び、この日、津島地区から本宮市の牛舎へ移動させた。入り切れない牛は仲間の酪農家へ売却した。搬出時に肢を止めた牛はみんなで力を合わせてトラックへ乗せ、午後には牛舎の中が空っぽになった。一時退避となった経産牛は避難先で数回にわたる生乳モニタリング検査が課せられ、牧場全体で安全が確認されてから生乳出荷が許可された。
 三瓶さんと今野さんの経産牛搬出が行われた2日前、県は飯舘村と川俣町山木屋地区の乳牛から採取した原乳についてモニタリング測定を行った結果、3回連続して基準値を下回ったと発表。これにより両地区から移動した搾乳牛も原乳出荷が可能となり、飯舘村と川俣町山木屋地区に残っていた経産牛の搾乳牛としての移動が正式に認められた。
 6月1日には飯舘村の経産牛が搾乳牛として売却されて村外へ運ばれ、3日後には川俣町山木屋地区の経産牛も同じく売却目的で牛舎を後にした。売却値段は通常取引価格よりも低かったが、これまでの移動はと畜出荷が主だったため、搾乳牛として生き延びれたことに関係者は安堵した。
 そしてモニタリング検査の結果、津島地区の経産牛に対しても移動制限が完全に解除となり、搾乳牛としての搬出が6月15日に許可され、計画的避難区域に指定された津島地区から牛と酪農家の姿が消えた。牛がいなくなったことで、やっと避難できる状況が整ったのだ。
 収穫が放置された草地では夏草が茂り始めていた。原発事故から3ヶ月以上がたち、季節は夏を迎えようとしていた。
(続く)


*年齢は当時(記事執筆は2013年10月)