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津島地区の民家に貼られていた家主のメッセージ(2013.2.21)

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 2011年3月14日。浪江町津島地区の住民や避難民らは、浪江町役場の災害対策本部が同地区へ移ってから3度目となる夜を迎えていた。厚い雲に阻まれて星は見えなかったが、前日に比べて気温はそれほど下がらなかった。
 周囲を阿武隈山地に囲まれた津島地区は原発周辺から避難してきた人々であふれかえっていた。避難所となった学校のグランドは臨時駐車場となり、隙間なく車が並んでいた。避難所はどこも混雑し、駐車した車内でカーラジオを聞きながら過ごす人の姿もあった。
 親戚や知り合いを頼って民家へ避難した方も多く、国道114号に面した門馬秀昭さん(41)の自宅にもきょうだいや親戚20人ほどが一時的に身を寄せていた。津島地区に9戸ある酪農家宅はどこも同じような状況だったという。
 門馬牧場の隣に建つ三瓶利仙さん(55)はきょうだいや長男の同僚家族だけでなく、見ず知らずの避難者も受け入れていた。そのときの様子を妻・恵子さん(52)は次のように語った。
「避難してきた人は最初4~6人くらいだったけれど、だんだんと増えていった。12日だったかな。軽い認知症をわずらった老婦人を連れた方から『庭先に車を停めさせてください。私たちは車のなかで過ごしますから』と声を掛けられ『それじゃ駄目ですよ』と自宅へ上がってもらったの。農家だからコメはあるし、1ヶ月は大丈夫だと思った。町は『津島に避難してくれ』と防災無線で呼び掛けていたけれど、津島の公共施設はすぐにいっぱいになってしまって。車は止める場所に困るほど殺到し、道路へ置くしかないという状態だった。親戚や知り合いの家に潜り込んだほうが正解だったんだよね。食料もちゃんとあったし」
 当時80頭(うち搾乳牛60頭)の乳牛を飼養していた三瓶さんは、門馬さんと同じく酪農2代目。長男が教職の道へ進んだため、牛舎作業は夫婦で行っていた。
 12日には茨城県水戸市内で長女の結婚式が予定されていたため、地震さえなければ三瓶夫妻は11日午後、親族は12日早朝に浪江町から水戸へ向かうことになっていた。結局、結婚式は延期となったが、12日以降は通常の牛舎作業の他に避難者の面倒も見なければならず、息つく間もないほどの慌ただしさだったという。廃乳するとわかってはいても、搾乳はいつも通りこなしていた。
 津島中心部から東京電力福島第一原発までは直線で約28kmの距離だが、その間には阿武隈山地の山並みが幾重も連なり、三瓶さん夫妻は自分たちが避難することになるとはまったく考えていなかった。「食料はありませんか」と訪ねてくる人には白菜や大根などの野菜だけでなく味噌なども渡し、みんなが1日でも早く帰れることを願っていたという。

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 恵子さんの実弟で同じく津島で酪農を営む今野剛さん(49)の自宅でも親戚30人ほどが身を寄せあって不安な夜を過ごしていた。
 午後9時。津島地区の南に隣接する葛尾村で大きな動きがあった。「大熊町のオフサイトセンター(緊急事態応急対策拠点施設)から職員が撤退した」との情報が役場へ入り、松本允秀村長が全村民避難を決断したのだ。その日、福島第一原発の3号機が爆発した後に防護服を着た駐在所員が「屋内退避をさせてくれ」と叫びながら役場へ飛び込んできたこともあり、松本村長は具体的な避難先を探しはじめていた。しかし県側の対応は「避難は駄目だとは言わないが、県として避難指示を出すのではないのだから、自治体で避難先を探してほしい」と、つれないものだったという。結局、広い駐車場がある福島市あずま総合運動公園を避難先と決め、午後10時半に住民を乗せたバスを先頭にして、多くの村民が葛尾村を離れたのだ。
 時計の針が午前0時を過ぎ日付が15日になったころ、今野家の母屋にあった電話が鳴り響いた。剛さんの父・幸四郎さん(74)が受話器を取ると相手は葛尾村の親戚だった。携帯・固定電話とも不安定な状況が続いていたが、たまたまつながった電話で親戚は葛尾村が全村民避難となったことを伝え「津島から逃げろ」と告げた。
 原発事故に関する情報はテレビから断片的に得るしかなかったため、葛尾村の親戚からもたらされた情報に幸四郎さんたちはただ驚くしかなかった。
 幸四郎さんは今野家にいる全員へ電話の内容を伝え終わると、三瓶さん宅へ向かった。三瓶家では電気を消し、それぞれが布団へ潜り込んだところだった。
 両家は突然の避難情報に動転しつつも津島地区から離れる決断を下し、今野家は幸四郎さんと剛さん、三瓶家は夫妻を除き、夜のうちにいち早く津島地区を出ていった。震災前年まで福島県ホルスタイン改良同志会の会長を務めていた剛さんは乳牛55頭(うち搾乳牛40頭)を飼養しており、その中には体型審査で当時の都府県最高審査得点となるEX-94点を獲得した「ユニオンデール ダンディー ガール」もいた。
 15日になると馬場有・浪江町長も避難を決断し、午前4時半に二本松市へ避難住民の受け入れを要請。午前10時には津島地区を含む全町からの避難を決定し、数台のバスを使って避難住民のピストン輸送が始まった。二本松市内に設けられた避難所は通常時1時間もかからない距離にあったが、乗車人数が多かったこともありピストン輸送は16日までかかったという。避難の回数を重ねるたびに隣近所にあったコミュニティが断たれ、二本松市へ移動した浪江町民は津島地区にいた人数の半数以下まで減少していた。
 15日未明には福島第一原発4号機建屋が水素爆発し、2号機も原子炉格納容器が損傷する事態となっていた。
 原発事故の原因究明を目的として国会に設置された『東京電力福島原子力発電所事故調査委員会』の報告書には「結果的に、福島第一原発から放出された全放射能量のうち、2号機原子炉からの放出量がかなり大きな部分を占めており」と記され、後に「帰宅困難区域」となる津島地区や飯舘村などの汚染は、この日降った雨や雪が大きく影響した。放射性物質を含む大気は雲とともに移動し、次々と大地を汚していったのだ。
 各地で高い放射能値が計測されたことを受け、政府は午前11時に福島第一原発から半径20~30km圏内の住民へ対して屋内待避を指示。この屋内待避指示は長期化し、結果として対象地域の物流が止まり、生活基盤の崩壊ともいえる事態が顕著に見られるようになった。


避難所となった津島小学校のグランドには避難者のものと思われる車が放置されていた。事故当時、燃料を入手することはとても困難だった(2013.2.21)

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 浪江町役場が全町民避難を決定した報せは牛舎に残る三瓶さんの耳に届き、三瓶さん夫妻も先に避難した方々を追って津島地区を離れた。避難先は猪苗代湖にあるリゾートマンションの一室で、11人による避難生活を余儀なくされた。
 恵子さんは言う。「感傷にふける余裕もなく、必死だった。ありったけのロールを牛に食わせた後は、もう逃げなきゃなんねえと思った。その時は剛みたいに牛を置いてまで出れねえとは思わなかった。家を出るときにお父さん(幸四郎さん)へ『剛へ何か言っていくべ』と相談したら『剛は絶対行かねえというから、剛には避難することを言うな』と言われ、黙って出ていった。とても辛い決断だし、どんな風に"おっかない"のかわからなかったけれど、逃げねばいけねえ。私の頭にはそれしかなかった」
(続く)


*年齢は当時(記事執筆は2013年4月)