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July 01

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快楽を覚えた猿のように、今日も飽きずに釧路川源流部で釣りをした。

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夕方、釧路川でカヌーツアーや自然ガイドを行っている「リバー&フィールド」のマメさんと合流。
マメさんの自宅に到着後、荷台に積んだキャビンを庭へ降ろした。
追突事故によるキャビンの修理見積は、なんと130万円。
そのうえにコツコツと空いた時間に手作業で修理を行うため、修理完了は秋頃だと言われていた。
金額よりも修理が長期に渡ることから、修理は断念。
代わりに中古のキャビンを入手する方向で話を進めたものの、保険会社からは旧キャビンを処分する際の費用は負担できないといわれていた。
処分費用は約8万円ほど。
スクラップにするには忍びないと、方々へ声を掛けた結果、マメさんが貰ってくれることになったのだ。
北の大地のゲストハウスとして、これからも活躍してくれると思うと、なんだかホッとすると同時に嬉しい気持ちでいっぱい。

July 01

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昨夜はマメさんと食事した後、満月に照られた釧路川を午前2時頃まで撮影。

July 02

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太陽に照らされ、川がキラキラと輝いていた。
再びウェットスーツを着用し、産卵のために川底へびっしりと集まりはじめたウグイを撮影。

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July 03

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釧路川滞在5日目。

July 03

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今日は「ノースイーストカヌーセンター」の平塚夫妻とカヌーを楽しんだ。
午前中は和琴半島の先端にあるオヤコツ地獄でまったりとした時間を過ごし、午後は釧路川の源流部をゆっくりと下った。

July 04

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July 05

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釧路川を離れて札幌へと移動する途中、二風谷へ寄った。
帯広から日勝峠を越えて沙流川沿いの道を進むと、土砂に埋まった広い河原が現れた。
以前にも増して、ダムによってせき止められた土砂が上下流と見渡す限り堆積していた。
清流の面影は消えてなくなり、茶色く濁った流れが土砂の間に貯まっていた。
二風谷集落に到着後、昨年5月に永眠された萱野茂さんの墓所へ向かい、手を合わせた。
カッコーの鳴き声が墓所のまわりに広がる林にこだまし、キツツキのドラミングが響いていた。

釧路川では反省の弁もないままに、開発局が声高々に「自然再生事業」だと謳い、新たな開発に着手するという。
変わり果てた川を見るたびに「川はいったい誰のものなのか」という思いを強く感じる。

July 06

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July 07

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July 07

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July 08

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July 08

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July 09

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お昼過ぎに千歳川へ到着。
さけますふ化場の少し下流から下りはじめ、ゴールは道央自動車道の橋の下。
およそ5kmのショートツーリング。
千歳空港から約30分と離れていないところに、こんな遊べる川があったとは。
空港で解散後、ぼくは苫小牧港へ。
バイバイ、北海道。

July 09

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苫小牧港を午前1時半に出航したフェリーに揺られ、北海道を後にした。
久しぶりに昼近くまで眠った後、霞のかかった海をぼんやりと眺めながら着岸までの時間を過ごした。

July 10

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July 11

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July 12

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近所のスーパーへ食料品の買い出しに出かけた。
買物を終えて店を出ると、見事な夕焼けが広がっていた。
駅前のロータリーで空を見上げていると、母親に連れられた子どもが空を指差して声にならない雄叫びをあげていた。

July 13

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今日は一歩も外へ出なかった。
食料品はあるし、冷えたビールもある。
とくに仕事らしいこともせずに、雨音を聞きながら本を読んで一日を終えた。

July 14

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July 15

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台風一過で、東京は久しぶりに清々しい空が広がった。
洗濯物を干し終わり、部屋の窓を開けてコーヒーを飲んでいると、震度2程度の揺れ。
気象庁のサイトで、新潟県や長野県北で激しい揺れが起きたことを知る。
新潟県柏崎市などでは震度6強、震源地は新潟県上中越沖だという。
柏崎市の海岸に建つ東京電力・柏崎原発施設で火災が発生し、ただいま消火活動中とNHKラジオ。
揺れを受けて、稼働中の原子炉は自動停止。
付近での消防活動が重なり、消防車は到着せず、職員による初期消火中だという。
原発施設内での火災に対しては、十分過ぎるほどの対策が練られていると思っていただけに、背筋が寒くなった。
火災は発生から約1時間半後の午後12時過ぎに鎮火し、心配された放射能の漏出はないと発表。
いつどこで起きてもおかしくないほど地震多発国に暮らすぼくらの生活は、あっけないほど簡単に崩壊することがあるかもしれない。
というリスクを背負っていることを忘れてはいけないと思う。
事故が起きたときの「想定外の出来事でした」という文句は聞きたくない。

July 16

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ラジオをつけっぱなしにして、机へ向かっています。

July 16

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明日、友人のHさんと新潟県柏崎市へ出かけることになった。
Hさんの実家は柏崎市内。
幸いにもご両親に怪我はなかったものの、被災の不便を余儀なくされていて、身体の都合で避難所ではなく自宅にいらっしゃるとのこと。
また親戚の方が経営する駅前の食堂は、割れた食器等で大変なことになっているという。

Hさんと相談し、現地で配布するミネラルウォーター等をぼくのダットサンへ積んでいくことに決めた。
“救援物資”というにはあまりにも規模が小さいけれど、現地の状況を考え、持参しても迷惑にはならないだろうと判断。
嬉しいことに、これまで3名の方からカンパをいただき、十分な量を購入することができた。

July 17

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今日は早朝から電話が多く、大半は嬉しいことにカンパの申し出や友人からの激励の電話だった。

時間が惜しいなぁと思っていたところ、微妙なタイミングで甲府にある「ミスティック」から納品予定のキャビンが仕上がったと連絡があった。
柏崎へ一緒に行くHさんと相談した結果、今週末に再び崩れる天気を心配し、キャビンを積んで現地へ向かうことに決定。
パーツ待ちの時間を利用し、甲府までキャビンを引き取りに出かけることになった。

慎重に運転し、「ミスティック」へ到着したのが12時半。
現場で新たな配線を組み直す作業等をしてもらい、ダットサンの荷台へキャビンを装着。
これからは、このキャビンがぼくの移動する家となり、事務所となるのだ。
で、15時半に甲府を出発し、なんとか17時にディーラーへ到着したものの、肝心の部品はいまだ来ず。

仕方なくホームセンターへ出かけて追加の買物をし、修理が終わったのが19時過ぎ。
メカニックの方の配慮で、なんとか本日中に修理を終えることができてホッとした。

柏崎市の社会協議会内に発足したボランティアセンターでは、末記の新聞記事にあるような問題が早くも出ているという。
一昨日の夜、ぼくが新潟行きを決めた大きな理由は、Hさんの存在だった。
Hさんのご両親や親戚の方々の被災状況をメールで伺い、現地へお手伝い応援に行くことを決めたのだ。
その後、現地の情報を広く集め、現地ボランティアセンターが立ち上がったことを知ったけれど、今回は顔のみえる範囲で手伝ってこようと思っている。
いただいたカンパ等で購入したわずかながらの“救援物資”もしかり、避難所等の窓口に預けるのではなく、自宅などで被災の不便を余儀なくされている方へお渡しできればと。

July 18

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午前3時半ごろ、関越自動車道の越後川口SAに到着。
ここでキャビンに身体を移し、仮眠。
目覚めると、駐車場には自衛隊車両やレンタルトイレを積んだトラック、災害派遣と書かれた紙が張られた車が多数駐車していた。
ぼくらも顔を洗い、歯を磨き、いざ行動開始。

July 19

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小千谷インターで関越自動車を降り、国道291号を使って柏崎市へ向かった。
夏日といえる空。
アブラセミの鳴き声が響き、窓を開けると清々しい空気が飛び込んできた。
峠を越えて柏崎市へ入り、田尻小学校付近から倒壊家屋を目にするようになった。
ノウゼンカズラが絡んだ木の脇に、全壊した家屋の残骸。
被災地へ到着したことを実感し、これまでとは違う緊張感が車内に漂った。

July 19

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柏崎市内に入り、持参したミネラルウォーターや生活用品等をHさんの実家や親戚宅へ届けてまわった。
Hさんの自宅は一時すべてのライフラインが断たれたものの、水道だけは復旧し、幸いにも生活に支障をきたすほどの損傷はなかった。
お互いホッとひと安心。

July 19

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柏崎市の中心部は、救援車や自衛隊の車両、ぼくらのような県外者の車で渋滞を起こしていた。
途中、マスコミの人たちが慌ただしく仕事をしている姿を何度か見かけた。
某テレビ局の腕章を着けたレポーターは、ヘルメットをかぶって街頭からレポート。
その彼にカメラを向けるカメラマンと音声のふたりは、いたって普通の服装でヘルメットの姿はなし。
これも“演出”される被災地の光景のひとつだろうか。

July 19

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Hさんと一緒に、兼業の漁師一家であるWさん宅へ向かった。
海岸沿いの漁師町にWさんの家はあり、玄関脇には「危険家屋」の印である赤紙が張られていた。
自宅は大きく北側へ傾き、余震で倒壊してもおかしくはないほどの被害を受けていた。

部屋をなかをみせていただくと、外れた襖や障子が床に倒れていた。
倒れた家具は起こされ、割れたガラス等の片付けがあらかた終わったとはいえ、地震のすごさは十分ぼくらに伝わってきた。
Wさんに話を伺うと「常に判断することを求められる船乗りだったから、地震を受けてもパニックにならず、適切に対応できた」という。
しかしそんなWさんでさえ、地震当時は宙を舞うテレビを押さえつけるのが精いっぱいだったという。

また漁師町ということもあって祭りのときなどに地域で炊き出しをする機会が多く、そのため地震直後からしぜんと役割分担が行われ、自衛隊などの救援部隊に頼ることなく炊き出しが行われたという。
あたり前のことだけど、日頃から近所同士のつながりが濃い地域ほど、災害に強い町といえるのだろうな。

話をしていると地元消防署に勤務する息子さんたちが休憩で帰宅。
築100年を越える家の大黒柱を背に、家族の肖像写真を撮らせてもらった。

July 20

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車で移動する際は、地元コミュニティーFM局である「FMピッカラ・76.3MHz」に周波数をあわせ、視聴者から寄せられる情報や対策本部からの発表を絶えず聞いていた。
FMといっても音楽を流すことはほとんどなく、身の回りの生活情報や視聴者からのコメントなど、柏崎市の「いま」の状況を伝えるための放送が終日紹介されていた。
対策本部によって街角のスピーカーから流される防災放送も、そのたびごとにFMでも流され、おかげで車内にいても聞き取ることができた。
地元に根付いた地元だけのラジオ局は、改めて災害時にとても有効だと認識。
休みなくマイクと向き合うパーソナリティーやスタッフの方々に頭が下がる思い。

July 20

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晩飯を買うため、国道脇のスーパーへ寄った。
食品売り場をのぞくと、いつもと同じくらいの品揃えにただただ感心。
市中心部にあるイトーヨーカドーは、地震当日の午後には営業を再開していたという。
コンビニも何事のなかったかのように営業をしているし、お金さえあれば食べ物に困ることはないといった感じ。

今回、急の呼びかけにも関わらず、友人たちから少なくない額のカンパが寄せられた。
それをありがたく使わせていただき、2Lのミネラルウォーターやお茶、ブルーシートやバケツなどの生活用品を自宅近くのホームセンターで購入し、現地へ運んできていた。

柏崎市内でも同じものが手に入るとわかっていたのなら、こちらで必要なものを購入したほうが良かったかもしれない。
などと、思った。

でも、今回はたまたまかもしれないし、難しいところ。

July 20

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市内を走っていると、営業中のファミリーレストランの「バーミアン」をみつけた。
この状況で飲食店が営業していることに興味を覚え、晩飯をここで食べることにした。
店内に入ると、限定メニューのみの営業だという。
チャーハンを頼むと、使い捨て容器に盛られた御飯とスープが運ばれてきて、スプーンも使い捨てタイプだった。
会計時に尋ねると、水道とガスは止まったままだが、熱源はプロパンガスを使用していたので営業できているのだという。
営業を始めたのは、地震があった翌日から。
店長の判断ですかと聞くと、本社からの命令だという。
そう答えてくれた男性スタッフの表情は、自信に溢れているというよりも仕方なくといった感じで、とても疲れているようにみえた。
店内を見渡すと、お客の大半は救援応援で現地入りした作業服姿の人たちばかり。
ありがたくチャーハンを食べた。

July 20

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今日はHさんとは別行動。
ぼくは柏崎市の社会福祉協議会に設置された災害ボランティアセンターでボランティア登録を行い、派遣活動に従事することにした。

午前8時に総合福祉センターに出かけ、9時前からはじまった受付にて、名前等を記入。
この日、早朝の駐車場に集まった人数は約60人ほどで、年齢も服装もそれぞれバラバラ。
女性の姿も多く、学生風の方もちらほら。
名前を記入し終わると、派遣先と派遣人数の声掛けがはじまり、参加者の自由意志によって、その日の活動先へと散らばっていった。

ぼくはなかなか人数が集まらなかった「給食補助・20名」の呼びかけに応じることにした。
人数が集まった後に告げられた行き先は、柏崎小学校。
まさか市内で“一番知られた”避難所へ行くことになるとは思わなかったが、これもなにかの縁だと思い、柏崎小学校へ向かった。

July 21

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午前9時半ごろ、柏崎小学校へ到着。
避難所となった体育館前には運動会テントが並び、すでに多くの方たちがミネラルウォーターなどの生活物資の配布活動を行っていた。
ぼくらボランティアセンターから派遣された20名は、到着したものの何をしていいかわからないので、現場の監督者の指示待ち状態。
ほどなくして、運動会テント周辺の掃除と片付けの指示を受けたものの、20名で取りかかるとあっという間に作業終了。
その後、現場の状況をそれぞれが把握したというか、雰囲気に慣れはじめ、なんとなく各自それぞれ仕事を受け持つことになった。

写真はトラックで運び込まれたおにぎりを配布する中学生。
彼女たちは、地元の中学2年生。
ふたりで相談し、自発的に避難所での作業を手伝うことにしたという。
彼女たちだけでなく、避難所には汗を流す地元中学生の姿があり、明るいかけ声が響いていたのが印象的だった。

July 21

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避難所での給食補助という名目で派遣されてきたものの、時間帯によってはそのような仕事はなかった。
といって、その間は何もしなくていいというものではなく、探せば仕事はあるもんだ。
ぼくは体育館前に積まれたミネラルウォーターの配布係に混ざり、受け取りを希望する方がやってくるたびに次から次へと渡す作業に没頭。
車でやってくる人も多く、その際は2Lのボトルが6本入った箱ごと差し上げ、車まで運んだりもした。

この日、柏崎市内には約70カ所の避難所が存在し、ぼくが伺った柏崎小学校はそのなかのひとつでしかなかった。
ほかの避難所も同じように「救援物資」が届けられ、ぼくらと同じような作業が行われ、地域の人たちに水や食べ物が配られているのだろうと、そう思っていた。
でも実際は、遠方からわざわざ柏崎小学校を訪ね、水や食料品を受け取りに来る方が少なくなかった。
ある小学校では「ミネラルウォーターを巡って喧嘩をした」と教えてくれる方もいた。
また避難所によっては配給物品に差があり、十分な量が確保されていないところもあると、具体的に訴えかける方もいた。

それらひとつひとつの現状を実際に確認したわけではないので、このようなことが本当のことなのか正直なところわからない。
ただ、実際に「自分のところの避難所ではモノがないため、ここへやってきた」と話す方は、ひとりふたりというレベルでなかったのは事実。
避難所格差は、実際に起きていると思って間違いなかった。

救援物資はすべて柏崎小学校に集まるという話も聞いた。
マスコミに登場することが多い避難所だからか、この日も関西からやってきた一日だけの炊き出しボランティア団体が、お好み焼きのようなものを地域の人たちに振る舞っていた。
ここへ来れば、モノがあると思った。と話す方もいた。
だからだろうか、山のように積まれたミネラルウォーターの箱が、暑さが厳しくなると同時にみるみる少なくなり、終いにはほんの数ケースのみを残すだけになった。

ミネラルウォーターの補給をするために、ぼくの車を使って救援物資が保管されている市役所の倉庫に出かけることになった。
倉庫には同じくボランティアセンターから派遣された男性たちが待機しており、バケツリレーの要領で次々と車に積み込んでは、体育館へ運ぶことを幾度か繰り返した。
“手厚いケア”がされていると思っていた柏崎小学校でも、このような状況があったのだ。
そして一度だけ、何人かと相談して柏崎小学校とは別の避難所へ水を運んだ。

15時を過ぎ、大型トラックでミネラルウォーターが届けられたことから、ぼくたちは再び避難所での作業へ戻り、夕飯作りのお手伝いをはじめた。
地元の方が炊き出しを仕切っていると思っていたら、テキパキと指示を出している方は、数日前にやってきたというボランティアの方だった。
職業を伺うと、以前フランス料理のシェフをしていたとのこと。
地震があった翌日に仲間とともに現地へ入り、炊き出しの手伝いをしているという。
彼が自衛隊と打ち合わせを行い、飯の炊きあがり時間から量の指示までしていると聞き、かなり驚いた。
また柏崎小学校で配給物の管理をしているのも、岐阜からやってきたボランティア団体だった。

ボランティアセンターから派遣されたボランティアは、16時に現場を撤収するという決まりがあった。
何人かで夕飯の下ごしらえのためにタマネギを切り刻んでいると、16時を迎えた。
包丁を握っていない方たちも、それぞれがなにがしかの夕飯の手伝いをしているようだった。
その場を離れがたい雰囲気が、そこにあった。
みんな時計を気にしつつ、とりあえず目の前のものを切り刻む作業だけはやってしまおうという空気が占めていた。
そして後ろ髪をひかれつつも、しばらくして小学校を後にした。

その後、ぼくを含め、何人かの人たちが再び小学校へ舞い戻り、配膳や配給のお手伝いの続きをはじめた。

July 21

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曇天の柏崎市を後にし、東京へ。

July 22

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蛇口をひねり、あたり前に出てくる水で米を研ぎ、炊飯器にセットした。
ふだんは気にすることのない日常生活のひとつひとつに、あらためて思いが飛ぶ一日だった。
荷物の後片付けが終わった後、新潟中越沖地震についての短い記事を書いた。
明日から、一泊二日で佐賀県の唐津へ。
玄界灘に浮かぶ松島から眺める海は、何色だろうか。

July 23

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ライターのTさんから依頼され、幻冬舎から発売されている月刊誌「GOETHE」の取材で佐賀へ出かけた。
Tさんとともに福岡行きの飛行機に搭乗し、目指すは玄海灘に浮かぶ松島へ。

July 24

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福岡空港から地下鉄を経て、唐津へ向かった。
じつは今回の取材、事前にTさんから聞いた話は「男の海女さんを取材撮影」ということぐらい。
忙しさを言い訳に予備知識を自分で得ることはなく、ほとんどTさん任せで当日を迎えたという感じだった。
なので行き先もほとんど知らなかった。
それがぼくにとっては新鮮で、久しぶりに「旅の面白さ」を味わえる移動になった。

July 24

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唐津からバスを使って呼子港へ移動し、船に乗ること20分で松島へ到着。
松島人口は約90名ほどで、全員がクリスチャン。
早速、明日の打ち合わせを兼ねて、取材相手である漁師宅へ話を伺いに出かけた。
その後、島を散歩。
島に商店はなく、一台しかない自販機が唯一のお店みたいなものだという。
民宿も一軒で、晩飯を食べるとすることがなく、すぐに就寝。

July 24

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やっぱりこれだから取材出張はやめられない。
本番になってみないと、実際のところはよくわからないものだと実感。
Tさんと顔を見合わせ、堤防でアハハと笑った。
思い出に残る取材になったことは間違いないな。

今回も船をチャーターし、約1時間ほど漁師と一緒に泳ぎ、彼らの素潜り漁の様子を撮影した。
ひとりの漁師は、来年80才になるという。
世の中一般的には「老人」と括られる年齢にもかかわらず、いまも現役の素潜り漁師。
彼の漁の様子を眺め、ぼくは感動してしまった。
水中深く潜ったと思ったら、その動きはとてもスムーズで、まるで海獣のようにも見えた。
優雅と言ってもいいかもしれない。
人間ってすごい!

July 25

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予定していた取材と撮影がすべて終わり、帰りの船を待つあいだ、地元の子どもたちに混じって海で遊んだ。

July 25

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現像所へ出かけ、写真納品のため、都内各地を歩いた。
セミの鳴き声が響く空を見上げては、夏が来たことを何度も実感。

July 26

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July 27

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July 28

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ポケモンスタンプラリーに興じる子どもたちを横目に、都内某所へ打ち合わせに出かけた。

July 29

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July 30

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雨上がりの街に響くミンミンゼミの声。
日記の更新をしなければと思いつつ、夏バテを理由にパソコンから遠ざかっていた。
午前中は部屋の掃除を行い、午後は機材の整理と荷造り。
これから4日間の出張。
ロケ地は佐渡。
明朝、直江津港で雑魚党の面々と合流し、フェリーに乗る予定。
台風5号の行方が気になるけれど、たぶん大丈夫かな。

July 31


June 2007-August 2007